Sarah:
わたしは昨日こんなことを話している人の記事を読みました。
『始めに言葉があった』とは「始めに意志があった」と同意だと。
聖書のあの箇所の『言葉』を「意志」にすべて置き換えて読むとわかりやすいと、その人は書いていました。
『始めに言葉があった』とは「始めに意志があった」と同意だと。
聖書のあの箇所の『言葉』を「意志」にすべて置き換えて読むとわかりやすいと、その人は書いていました。
SARAHの願いはもう一度最初に戻っているのかもしれません。
『神の意志』を本にして世界中に届けたいと。
Hiro:
『分離に関する誤解を解くこと』これが神の意図です。
分離の礎は切り分けられた体です。
しかしこれに対する理解を人々は無視しようとしてしまう。
Hiro:
体に関する誤解。
罪の思考と『体』は同じ。
体を捨てようとしても無駄。
Sarah:
“「罪の思考」を捨てようとしても無駄”
こういうことになりますか?
“「罪の思考」を捨てようとしても無駄”
こういうことになりますか?
Hiro:
その通りです。
罪の思考を捨てることは体を捨てることで、
それは難しすぎるし、そうしようとする必要はありません。
Sarah:
あなたの教えたいものは『からだと罪』でしょうか?まずそれからなのでしょうか?
もし順序がそのようにあると仮定して―。
では、あなたの最終的に教えたい…、言いかえればあなたが一番わたしたちに届けたい福音とは何なのでしょうか?
もし順序がそのようにあると仮定して―。
では、あなたの最終的に教えたい…、言いかえればあなたが一番わたしたちに届けたい福音とは何なのでしょうか?
Hiro:
体と罪、これが物凄くわかりにくくされており、
人々が聖霊から離れてしまうのも、この誤解故です。
『体が罪深いものである』というと断罪に聞えます。
こう言いましょう。
概念が体を分離して見せているのです。
Sarah:
からだが罪深いものである、と誰が最初に教えたのですか?
『罪』という英語がわかりにくくさせたのではありませんか?少なくともわたしには馴染めません。
『罪』という英語がわかりにくくさせたのではありませんか?少なくともわたしには馴染めません。
Hiro:
罪とは分離です。
『分離した体が自分である』そう考え、そう振舞うことが罪(間違い)なのです。
体が罪深いとは『体が誤解を表現している』という意味です。
Sarah:
『間違い』という言葉に、今ここであなたが書き直せばいいのではありませんか?
Hiro:
そうですね。
既にACIMでは『罪は実在しておらず。それは間違いなのである。』と書いてあるけれど。
しかしACIMを読む上では『罪とは体であり思考である』と知っていた方が理解が容易です。
Sarah:
あなたは真新しいひとです。
あなたは、あったものを真新しいものへと見事に繋ぐ唯一の存在です。
そうでなければなぜ、あなたは“あったもの”を熟知するにそれほどの熱意を神に捧げてこられたというのでしょう!
『罪という罪はあらじ』(祝詞)
あなたに間違い(罪)はないのです。
あなたは、あったものを真新しいものへと見事に繋ぐ唯一の存在です。
そうでなければなぜ、あなたは“あったもの”を熟知するにそれほどの熱意を神に捧げてこられたというのでしょう!
『罪という罪はあらじ』(祝詞)
あなたに間違い(罪)はないのです。