{どうも上手くコミュニケーションが取れないようですが、何で?}
理屈の部分が衝突した。
理屈/論理そして推論は人によって異なる展開を見せる。
そして理屈は体験を乗り越えられない。
理屈より体験的に感じたことが優先されて、理屈はそれを説明する為に使われるので、
異なる体験をしている人達の間では理屈/論理を使って合意することは困難。
そして持論を自分の一部として考えてしまう傾向は強い。
理屈にこだわると、あなたはもう人は見ておらず、論理の正しさや全体的な整合性に注意を奪われてしまう。
するとあなたの論理展開が必然的に他者を否定したことになる。
何故なら、あなたはより強い論理を作り出そうとしてしまうから。この欲求を止める事にあなたは手間取っている。
あなたは理屈では話を伝えようとするが、自分の体験を話した方が効率的。
しかし今回はあれでパーフェクトだった。 あなたと仲良くなるよりも、彼女にはショックを受けて欲しかった。 すると共有が始る。
今理解が流れているでしょう。 彼女もこれを受け取っている。これが共有された認識、拡張された認識です。
天国が既にあるので心配は要らない。 あなたが言いたかったことも彼女は理解してくれる。
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{今回の一連の出来事で}あなたを焦れさせたのは、あなたの言葉が祝福としては受け取られず、あなた自身でもそう感じてはいないから。
しかし私は状況を破る必要がある。 破綻しているところがあなたには見えるのだから、それを知らせないことは愛ではない。
「言葉の見事さには意味がない。」
これがあなたの到達した理解でこれだけなら平凡に聞えるが、「言葉の酷さには意味がない」と言えば沢山の酷い言葉を聞いたり言ったりして来たあなたにも意味が解るでしょう。
あなたが言いたいことは、他者の聖霊の言葉を書き続けた結果として自分の聖霊を疑う癖が出てしまった。 聖なる瞬間の実践では、たとえお互いと衝突したとしても、自分の聖霊を信じるべき。
お互いを尊重することは大切だけれど、真理に対して妥協しては明晰なものは現れない。
{頂いたお返事には、幾つか誤解があるけれどもそのままにして良いのですか?}
急ぐ必要はない。 もう少し待つほうが良い。
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