サラ:
☆十字架にかかったのは、あなた ジーザスですか?
あなたは人間でしたか?
あなたは 普通の人間と同じように、あのとき血を流したようですが(なにしろ わたしサラはそれを実際に目撃していないので)あなたはあのとき“痛み、苦しみましたか?”
それとも痛みを苦しみを“実際には!”感じなかったのでしょうか?
☆あなたはマリアの子宮に宿りましたか?
あなたはマリアという女性の身体から出てきたのですか?
「人間を創ったのは神だ」とアベイラブルノーツは書いています。
(ジーザス、わたしは端的に質問したいのです。)
人間は女性が出産しなければ少なくとも“この世に”出現できないのでしょうか?
これからの未来も?
“わたしを産まなかった子宮こそ祝福されるべき(聖書)”とあなたは本当に言いましたか?
そうなら、それはどういうことか、今、具体的に話してください。
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ヒロ:
ヒロからサラに質問させてください。
あなたがお子さんを身ごもった時、お子さんを出産された時、ご自分のお子さんが永遠に生き続ける(存在し続ける)と思っていましたか?
この質問をされてあなたは怒ってしまうかもしれないけれど、あなたは私の起爆剤で、私はあなたの起爆剤なので、赦してください。
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サラ:
全然怒る気になりません。
だって、あなたの質問がそこにあり―。
そして、わたしサラには何も この質問の場所に何も実感がないからです。
あなたの質問が無意味で無価値と言っているのではありません、断じて。
わたしサラの実感はただひとつ!
身籠り、出産し、さらに 乳を与え―。
これは苦痛の激痛の憂鬱の血生臭く―。
ええ、これは ことわたしサラにとっては、あってほしくはないことでした。
産みの苦しみのどこに尊さがあるかわかりません。
マタニティーブルーを真の意味で誰が(人間が)説明できるでしょうか?
産んだ子の生命に思いを馳せることなど(そんな優雅な意識など)わたしサラには全くもって 無縁な世界でした。
それに……。
第一、 産んだわたしサラが、自分がやがて死ぬなんて全然ワカラナイ話しで、わたしは死ぬとはハナッカラ思えません。
そんなわたしに産んだばかりの子の生命の永遠を思うことなどできるでしょうか?
出産した夜はどうしようもない孤独感で涙が出ました。
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ヒロ:
サラ、あなたはとても正直な人で、私は常にあなたに助けられています。
「自分がやがて死ぬなんて全然ワカラナイ話しで、わたしは死ぬとはハナッカラ思えません。」
それで当然です。
「存在が無くなってしまう。 実在している私/意識/気持ちが失われてしまう。」 これ程酷い欺瞞は他にありません。
「ええ、これは ことわたしサラにとってはあってほしくはないことでした。」
つまり受胎と出産はサラの意志とは関係なく起こっていたのですか? 少なくとも受胎はサラの願いに反することだったのでしょうか?
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サラ:
“あってほしくはない”とは、
女性が出産することの肉体的苦痛 激痛 憂鬱、特に つわり という避けがたい(つわりが全くない女性がいることも確かですよ、現にわたしはその女性が目の前にいました)まとわりつく、これらの重た過ぎる重荷のことです。
旧約聖書か何かに、
神が罰として女性に妊娠出産を与えた―たしか こんな言葉がなかったでしょうか?
確かめてないので間違っていたらごめんなさい。
あってほしくはない、これからの女性には経験してほしくない、
それは 「肉体的精神的苦痛」のことだけを言いました。
真新しい人間をこの地球にもたらす、このことは至上のよろこびです。
わたしサラは
これは ある意味 わたしのやりたかったこと
この真新しい存在をもたらすdoorに神が成して
神がわたしに命令したことはたいへんな祝福でした。
神の栄光のリアルな手段に わたしがなれたことは本当によろこびなのです。
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ヒロ
つまり「出産に伴って耐え難いほどの痛み(困難)があった、これ(痛み/苦しみ)が祝福だとは思えない」ということですね?
私には自分が人を出産した記憶が全くありません。
(多くの人達にはまだ理解して貰えていないようですが)私は今回生まれる前からの記憶をある程度有しています。様々な身分や職業や人種であった自分を思い出すことが出来ました。
しかし自分が誰かを出産したという記憶は今のところ全く思い出せ無いのです。私は子供を生んだことが無いのかもしれません。
いずれにしろ私に聞こえたことを言いましょう。
痛みは死を思わせるもの(程度の差はあっても死の可能性を示唆するものです)そして、一般的に体は痛みを受け取るものとして想定されています。 (「ある程度強いストレスが掛けられたなら体は痛み始め崩壊し始める」という定義が体に与えられており、それを忠実に執行しようとしてしまいます) しかし痛みはあなたを殺しません。
何故なら体があなたを作っているのではないからです。
体が自分である(体が自分の源である)と信じたなら「自分はこれだけの痛みを感じている、従って自分の体はそれ相応の影響/破壊を受けたに違いない、その影響はリアルで取り消せないに違いない」という体験が起こり続けます。
何故あなたは{妊娠期間中に、そして出産時に}痛みや憂鬱を感じたのでしょう?
それはあなたが引き裂かれたからです。
「これが自分だ!」とあなたが考えていたものが引き裂かれたのです。
あなたは生まれ変わったのです。再生したのです。
だからあなたは「自分」を保つことが出来なかった。 出産の前と後ではあなたは違ってしまったのです。
しかし痛みが原因であなたが崩壊したわけでは在りません。
怒りが在ったのです、怒りが悲しみに変容され、意識の中に留め置かれたのです。
悲しみに転換された怒りは、「否応なく自分に襲い掛かってくるもの」として体験されます。
何故なら悲しみに転換されてしまったなら、怒りが何処から来ていたか解らなくなって(知覚認識不能になって)しまうからです。
そして「私の痛みに意味が無ければ私は報われない」怒りはそう言うのです。
しかし痛みは無意味なのです。
{ここまで書けました。 しかし未だ未完成です。 これを自分を、そして誰かを断罪するものとしては読まないでください。 そのように聞えてしまうかも知れませんが。}
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サラ:
「しかしあなたは自分を保つことができなかった」
この“保ってきた自分”とは、神から分離した自分のことを指していますか?
わたしが出産したあの日の夜、抱えきれないほどじわじわとやってきていた
あのどうしようもない孤独感とは。
つまり、エゴが危機にさらされている最中の鈍痛のようなものだったのかもしれません…。
これはまた、つわりの、心身ともに 萎えさせられる、あの苦痛や憂鬱…。
エゴの消滅の危機から
エゴが発する容赦ない
「神聖な真のわたしへの意地悪な攻撃。 神聖なわたしへの抵抗」(このふたつは同じでもあります)
つまり つわりの苦しみも 出産時の悲しみも、同じエゴから来ていたものに思えてきました。
「新しい命」とはまた、愛で見るなら、神の目で見るなら―。
出産する者の中にこそ注がれた、その存在そのものの真新しい存在と捉えてもよいかと今 思いました。
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ヒロ:
二人のやり取りを一つに繋げて読み返して見たところ、食い違いも見られますが、心配していたよりは一貫性があるようです。 こうして見ると私の書くことはかなり抽象的で、サラの文章は(体感的な話や感想など)私にはない特徴を豊富に備えています。
「あってほしくはない、これからの人には経験してほしくない、それは 肉体的精神的苦痛のことだけを言いました。」「自分が引き裂かれた。あなたは自分を保つことができなかった。」
これは私にとっては、子供の頃に死という概念を自覚した時が当て嵌まります。
「永遠の死、一旦死んだならもう二度と生きることはない、自分が生きている世界がこれを教えている」これを理解した時私は引き裂かれその精神的苦痛は癒やされず残り続けていました。
神が人を造り、人と神は一つでした。 神が源で、源である神の現われを体現しているのが人です。
人は神から離れる決意を行い、知恵の樹の果実を食べました(分離意識の思考を始めました)。
そして「分離した知覚認識の結果」を信じるようになったのです。
そして「分離している知覚認識の結果」を保とうと試みています。
「十字架の上でイエスは苦しんだのですか?」
例えそうであっても彼は世界を呪いませんでした。 十字架の上で彼は一言も呪いの言葉を吐きませんでした。
「人は女性が出産しなければ少なくとも“この世に”出現できないのでしょうか?」
そうである必要はない。(そう聞えました。) あなたが認識している世界が「この世」なのだから。