11/29/2012

私の就職

私が大学を卒業した当時アメリカは大変景気が悪かったです。 地元企業のボーイングに行っても、受付口で「今年は求人予定がありません。当社はこれから大規模なリストラですから。」と言われて、履歴書も受け取ってもらいませんでした。 沢山の履歴書を手当たり次第ばら撒いてみましたが就職にはいたりませんでした。 大学の企業説明会では大企業から派遣されているモルモンの人の宗教に対してイチャモンをつけて嫌われたりもしていました。{私は若い頃、アメリカの人とは思想的に衝突することが多かったのです。} 

その上、私はその頃アメリカの労働許可書をもっておらず、市民権も永住権も持っていませんでした。不況下の新人求職者としてはかなり不利だったのでしょう。 「お父さんの仕事を手伝ったら」と母から言われましたがそれは絶対にイヤでした。
 
このままではヤバイと思った私は当時景気が抜群に良かった日本での就職を決めました。
メーカー系の中規模会社でした。周りは若いエンジニア系の男と新卒の女の子で、大学の延長のようで楽しかったです。日本での生活は思想の衝突(社会はこうあるべきという理念の対立)が起こらず平和でした。

しかし一年も立たずに「これで良いのか。このまま進めば自分の人生がイヤに成るかもしれない」という気持ちが沸き起こり会社は辞めました。
 

仕事を止めて暫くは生まれ故郷の東京で無職の一人暮らしをしました。 昔の同級生と会ったり、朝寝坊をしたり、音楽のバンドを始めようとして失敗したり。 しかし直ぐ金が無くなってしまいました。
だからアメリカに帰りました。 今回は勝算があったのです。父のはからいでわたしにアメリカの永住権が貰えることに成りました。これなら就職も出来るはず、と思ったのですが中々就職は決まりません。 そんなある日、知っている人から一つの会社を紹介されました。出来たばかりのコンピューター・ソフトの会社です。 給料はかなり安いのですが、直ぐに雇ってくれるそうなので、日本の中堅ソフト会社からのオファーが取れているにも係わらずそちらを蹴って、このソフト会社に入りました。

仕事は無茶なものが多く福利厚生は殆どなく「スタートアップとはこんなものか」と思いました。 それでも会社に入ればそれなりに仕事をするものです。 一生懸命仕事をしました。
同僚のアメリカ人や日本人とも仲良くなり、学生時代よりも楽しいと私は思いました。

しかし創業したばかりの会社は成功したなら大きく成って行きます。大きくなる課程で色々と軋轢も生まれます。 「この会社の為に働き続けることは出来ないな」辞めて行く同僚達を見ながら、自分もここに留まることは出来ないと思い、社長と喧嘩するような形で止めました。
しかし直ぐに次の仕事は見つかりません。 いえ、本当のことを言えば、一つ就職の宛てがあったのですがそれは断ってしまいました。 前の会社より老舗のソフト会社で待遇も良かったのに。今から考えれば、その時点でサラリーマンには戻れなくなっていたのです。
 

そんな時、父が病気になり入院しました。父が無事退院した夜の晩餐で、「あなた達兄妹のどちらかがお父さんの仕事を継ぎなさい」怒りながら涙を流しながら母が訴え掛けます。{後日「そのようなことを自分が言った覚えは全くない」と母は言っています。} 

「それだけはしたくない、でももし父が今度倒れたら、父の会社がつぶれてしまえば、現在無職の私には家族を支えることは出来ない。」 

私は父の下で働くことにしました。

父と一緒に仕事をしてみれば、心配していた程父と喧嘩はしませんでした。

仕事であれば、やるべきことがある程度明確に決まっているので、叱られても納得出来るし、理に適っていないことを言われても堂々と言い返せるのです。

そして父と同じ仕事をして、ある程度父が理解出来るようにも成りました。
父はとても現実的で、私のように理念にはこだわらない男です。

父の注目は「何が実際に出来るか、何が得られるか」で「どのような理念(アイディア)からそれが起こっているか」ということには関心が薄いようでした。
つまり父が現実主義者(なによりも上手く行くことを優先する者)を体現しており、私は過激な理想主義者(理想を求める者)を表しているのです。

そして過激な理想主義者は「現実主義者」には勝てないようでした。

理想/理念が体現されるには、私自身が現実主義者に成るか、奇跡が必要なのです。 もしかしたらそれら(現実主義と奇跡)は同じなのかもしれません。

 
私は、閉じこもりも無職も仕事漬けも家族ビジネスも(小規模ながら)バブルとその崩壊も体験しています。
それらの体験の中で一番尊いものは何でしょうか?

それはビジネスではなかったです、そしてどの仕事の報酬が多かったかも今ではどうでも良いことです。 全てが繋がって一つの報酬ですから。
父の気持ちが解ったこと、アメリカの理念とその現実の間で自分が悩んでいると気付いたこと。 

つまり家族が大切なのです。 アメリカという大きな家族と、私の両親という親密な家族が大切なのです。 そして勿論日本という大きな家族も大切なのです。
これは少し古い話しで、少し特殊かもしれません。あなたの実情とはかけ離れた話に聞えるかもしれません。しかし人というものはお互いに異なってはいません。 国や文化や仕事などが違っても、人の心の動きは異なっているように見えて実は同じです。

 
今は(特に若い人達にとって)日本は難しい時だと言われています。
私から見ると今の日本は80-90年代のアメリカを思い起こさせます。

国内産業の停滞/ナショナリズムの高まり/外国との摩擦/貿易赤字/財政赤字/自信喪失。
とりわけアメリカにとって脅威だったのが日本です。

産業で全て日本に負けてしまう。日本との対外収支が大幅赤字、日本にゴルフ場や会社やメディアを買い占められてしまう。 日本の銀行には適わない。 アメリカよりも日本の産業/政治/教育が優れている。
多くの点においてアメリカは日本に負けている(出し抜かれている)と、日本のメディアだけでなく、アメリカのメディアがそう言っていたのです。

しかし今どうなっているでしょう。 「当時とは全く異なる状態」が現在に現れています。

ということは今から五年後十年後には、今とは全く違う状態が現れているのです。
我々はこれを繰り返すのでしょうか、我々はこの波に翻弄され続けるのでしょうか?

 
しかし一番大切なのは家族(ファミリー/人類愛)です。

11/21/2012

コミュニケーション


{どうも上手くコミュニケーションが取れないようですが、何で?}

 

理屈の部分が衝突した。

理屈/論理そして推論は人によって異なる展開を見せる。

そして理屈は体験を乗り越えられない。

理屈より体験的に感じたことが優先されて、理屈はそれを説明する為に使われるので、

異なる体験をしている人達の間では理屈/論理を使って合意することは困難。

そして持論を自分の一部として考えてしまう傾向は強い。

理屈にこだわると、あなたはもう人は見ておらず、論理の正しさや全体的な整合性に注意を奪われてしまう。 

するとあなたの論理展開が必然的に他者を否定したことになる。

何故なら、あなたはより強い論理を作り出そうとしてしまうから。この欲求を止める事にあなたは手間取っている。

あなたは理屈では話を伝えようとするが、自分の体験を話した方が効率的。

しかし今回はあれでパーフェクトだった。 あなたと仲良くなるよりも、彼女にはショックを受けて欲しかった。 すると共有が始る。

今理解が流れているでしょう。 彼女もこれを受け取っている。これが共有された認識、拡張された認識です。

天国が既にあるので心配は要らない。 あなたが言いたかったことも彼女は理解してくれる。

 

 

+++++++++++++

{今回の一連の出来事で}あなたを焦れさせたのは、あなたの言葉が祝福としては受け取られず、あなた自身でもそう感じてはいないから。

しかし私は状況を破る必要がある。 破綻しているところがあなたには見えるのだから、それを知らせないことは愛ではない。

「言葉の見事さには意味がない。」

これがあなたの到達した理解でこれだけなら平凡に聞えるが、「言葉の酷さには意味がない」と言えば沢山の酷い言葉を聞いたり言ったりして来たあなたにも意味が解るでしょう。

 

あなたが言いたいことは、他者の聖霊の言葉を書き続けた結果として自分の聖霊を疑う癖が出てしまった。 聖なる瞬間の実践では、たとえお互いと衝突したとしても、自分の聖霊を信じるべき。 

お互いを尊重することは大切だけれど、真理に対して妥協しては明晰なものは現れない。

{頂いたお返事には、幾つか誤解があるけれどもそのままにして良いのですか?}

急ぐ必要はない。 もう少し待つほうが良い。

11/14/2012

フィリップKディックはACIMの夢を見ていたのか? 

http://www.youtube.com/watch?v=jXeVgEs4sOo&feature=related


私は「偽の世界/幻想の世界/プライベートな歪んだ世界」を沢山の小説に書いて来ました。
殆どの場合、その世界の中には一人の人だけが住んでおり、その他の人々も自分一人だけで存在している自分自身の世界に住んでおり、時には奇妙な世界(他者の一人世界)の中に引き込まれて行くのです。

今まで執筆生活を27年続けてきましたが、これらの複数世界(偽世界)に対する私の確執への理由は自分でも解りませんでした。

しかし今私はその理由を理解したと思います。

私が感じていたのは多数の部分的に現実化されたリアリティで、それは一番確実に現実化された世界{わたし達の最多数が常識の上で合意している世界/一番強く相互合意されている世界}と隣接しているのです。


その日の午後、私は自宅でソディウム・ペンタソル(チオペンタール/沈静効果を持つ麻酔薬)を摂取しており、まだその効果が確実に残っていました。 私は短い閃光のように{断片的に}記憶を取り戻しました(フラッシュバック)。
その一ヶ月後の五月中旬、同じ記憶の全容が完全な形で戻ってきたのです。

私の言うことを信じてくれても信じてくれなくても結構ですが、私は冗談を言っているのではなく、とても真剣で、これは重大なことなのです。


その時私は自分が何を見ているか解りませんでした。
それは私がそれまでに見たどのようなものにも似ていませんでした。

それはプラズマ・エネルギーのようで、それは色を持っており、それは素早く動き。
それは一点にまとまり、それから消え去りました。

しかしそれが何だったか? 彼が何だったか? 私は今でも解りません。
 

つまりこれ(次に述べること)は私の小説の中に頻繫に現れる主題なのです。
黒い髪の女の子が主人公の前に現れ「あなたの世界は幻想だ、あなたの世界は何かが間違っている」と告げるのです。 {このような主題の小説を私は沢山書き続けたのです。}

 そしてある日、私はこれを実際に体験することになったのです。

彼女の髪が黒いであろうことを私は既に知っていました。

「彼女がどのような姿で現れ、そして何を言うか」私は完全に予知していました。

{体験が起こる前にプリコグニション(前知)が与えられていたのです。}


現れた彼女は今まで私が全く会ったことの無い人で、彼女が次の事実を私に知らせたのです。 「あなたの書いた小説の幾つかは本当なのだ。」

私は沢山の小説の中にこの夢に関することを書き続けました。
その中で一番酷いリアリティを書き示したものが「高い城の男」(アメリカの半分がナチスドイツに統治され、もう半分が軍事主義国家日本によって統治されているリアリティ)と「流れよわが涙、と警察官は言った」(アメリカが秘密警察国家に成っているリアリティ)です。

私は正直に話しましょう。

私はこれら二つの小説を奴隷状態の世界に対する「残された記憶の断片(フラッシュバック時に得たヴィジョン)」を元に書いたのです。

つまり(前世を覚えているという人々もおられますが)私は(普通に現実だと思われていることからは)全く異なる現在の実生活を覚えているのです。 

{これなの、これが出来て、これを書き続けたい人が小説家とか作家なの。 訳注}

他の人がこのようなことを言った例を私は知りません。

しかし私の体験はそれ程特別なものではないと思います{沢山の人が同じような体験をしているのだろうと思います}。

しいて言えば、私がこのことに関して自ら話そうとしていることが珍しいことかもしれません。
 

{沢山の小説家/漫画家/芸術家が同じ体験をしており、作品の中にこのことを書いています。
石森章太郎さん、この人は009の未完の天使篇(神との戦い)のプロローグでほぼ同じことを言っています。 彼の病室に(黒髪の女ではなく)ギルモア博士が現れ「あなたの漫画はもう一つのリアリティを書いたものなのだ」と石森章太郎に言います。

手塚治さんは火の鳥と自分の対話を作品内に書いており、自分は伝えられたことを知らせる為に作品を書いていると表明していたはずです。 

つまりあなたのアイディアの中の登場人物が現れ「あなたのアイディアはあなたのリアリティ/現状を反映している」と告げるのです。 その時「自分は自分のアイディアの一部なのだ」とあなたがあなた自身に向かって言っているのです。

ジュール・ヴェルは未来を透視し将来のテクノロジー/戦争/日本の発展などを予測し、小説にも書いています。

それから告白していないけれどレオナルド・ダヴィンチや萩尾望都さん(時間を超越するバンパイア=ポーの一族、時間を操作する超人=銀の三角)も明らかにこのタイプの体験をしています。

杉浦日向子さんは、自分は江戸と東京を毎日行き来していると言っており、そしてそのことをかなり明確な形でエッセーに書き残してもいますね。 
これらのことは体験無しでは書けないのです。 訳注}

 
わたし達はコンピュータ・プログラムの様なリアリティ内に住んでおり、{この世界が偽者であるということに関して}わたし達に与えられている手掛かりは、「何らかの変数(要素)が変えられた時、わたし達のリアリティ/体験がそれに対応して変化する」ということです。
{このことに気付いた時}「自分達は現在のディジャブーを繰り返し生き続けているのだ」という感覚が起こるのです。 全く同じ言葉を聞いて同じ言葉を言っている状態に我々は陥っているのです。

私はこれらの観察がリアリティを言い当てており重要なものであると提起します。
これらの感覚{わたし達が時おりデジャブー/既視感を感じているのは}は「過去において要素が変えられプログラムに取り込まれ、その結果としてアルタナティブな世界(今までとは異なった世界)が枝分かれしている証拠」であると、私は主張したいのです。

{世界の要素が変えられ、それに伴ってプログラムが書き換えられている時に、世界の様相が変わり、その変化をわたし達は既視感(私は以前にもこれを体験しているという感覚)として体験するのです。
以上


{これ(世界の要素の変更)を個人レベルで出来ると仮定して書かれているのが萩尾望都の「バルバラ異界」です。ここでは「事故で亡くなった息子(実は血が繋がっていない義理の息子)を生き返らせてくれ(プログラムを書き換えて欲しい)」と主人公が夢の中の人物に頼んでリアリティに戻ったら、自分の息子が入れ替わってしまいます。 幼少時に死んだ筈の息子(実子)が生き残りそのまま自分の息子として成長しており、そしてそれまで自分の息子として存在していた筈の義理の息子は夢の中に回収されてしまうのです。  
しかし萩尾さんは物語を面白く語ることを絶対手放さないので、物語を大きく破綻させてその軋轢の中からリアリティを浮き上がらせようとし続けたディックよりも上手く物語をまとめてしまうのです。 ディックの小説は隠されているリアリティを暴き出すことを第一に考えられており、エンターテーメントとしては余り上手く機能していません。しかし彼は啓示的なアイディアに拘り続けた人です。}
 
{プラズマ・エネルギーの部分は私も体験しています。薬は嫌いなのでドラッグはしていませんでした。それについてはまた後日。
黒髪の女性は一説では日本人だとか。私はお会いしていないです。}