9/20/2012

領土


日本とアジア、そしてアジアとアメリカの関係が今動いていますね。
 
そして色々な意見/立場が表明されており、
陰謀説なども根強く、確かにアメリカにも日本にも中国にも陰謀を仕掛けようとしている人達は居るでしょう。
 

しかし陰謀はそれ自体では決して上手く機能しません。
その国の大半の人達が自ら陰謀(言い立て)に乗せられなくては、陰謀は上手く働かないのです。
 

争いに対してはNOと言ってください。

「他の人が何と言おうとも自分は争わないのだ。これは争いには値しない。この争いが私を侵害することは在り得ない。」と言ってください。

そして自分の意見を表明するべき時には、私に話させなさい。

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先ず第一に安心です。「安心している場合ではない」と言われている時こそ、静かに明晰に成ってください。

 中国と日本の紛争は、土地の所有権(国家の領土)を巡る問題であり、歴史的主張の対立であり、プライドのさや当て(プライドの問題)であり、日本中国とも国内で意見を出し合って少しづつ意見をまとめようとする課程で(それぞれの過激な人達によるスタンドプレーによって)国同士の衝突をエスカレートさせて来ています。

日本と中国両方の人々がするべきことは、先ず第一に国内で争わないことであり、自分自身と(自分の中で)争わないことです。


政府が取るべき態度に関して、日本でも中国でも人々の意見は様々に分かれているでしょう。

「国を守らなくてはならない、国の領土権を他国の侵害から守らなくては自国がダメに成ってしまう。自国の領土の主権(統治権)に対するチャレンジは全て退けなくてはいけない。」という見方があります。

そして(自国の利益が脅かされているという)強烈な危機感を持っている人達は、自分達の意見(ものの見方)が浸透しなくては自国が(世界が)ダメに成ってしまうと考えています。 だから彼等はスタンドプレーを行うのです。 自分達の過激な意見を行動に移して世間/世界に訴え掛けようとするのです。

その人達の中にはより深い目論見(より一層の対立を引き出そうとする戦略的目的)を持って行動している人達が混じっています。 往々にして彼等の忠義心は国にはなく、自分自身だけへの忠義心を持っているのです。だから彼等は国を混乱させることを行ない「国を愛しているからこそ自分達は対立的行動を行なうのだ」と言うのです。 しかし彼等は自分への忠義心の為に簡単に国を売り渡すのです。

その対極にあるのが「国なんかどうでもいい。国があるからこそ争いが絶えないのだ。人々の国への依存こそが問題を作っているのだ。」という意見を持っている人達です。
彼等の忠義心もまた自分を中心にしたものですが、これらの人達は自分の忠義心が第一に自分自身に対して(自分自身の家族だけに対して)与えられていることを隠していません。
(故に彼等は「人が大切で、それに比べて、国はどうでも良い」と言うのです。)

彼等は国に対する安心感を持っておらず、自国も他国も信頼してはいません。

しかし国との一体感を持っていない人々は、血族/親族以上の一体感を持つことは出来ていません。
 
人々はこの両要素(自国が他国より大切 VS. 国より自分が大切)を併せ持っています。

つまり世界との一体感が育っていないのです。

だから土地を(両国のそして世界の)共有財産として扱う見方が育っていないのです。

しかし実際には全ては共有財産として既に存在しているのです。 

神は全てをそのように作ったのです。
 

あなたが中国人であるにしろ、日本人であるにしろ、アメリカ人であるにしろ、ロシア人であるにしろ、アジア人であるにしろ、ヨーロッパ人であるにしろ、南米人であるにしろ、
あなたが神と共に動いたなら、世界が神と共に動くのです。

 
だから私はACIMを共有財産(common property)にして欲しかったのです。
だから私はあなたに頼んだのです。

あなたが動けば世界が動くのだから。

 
対立が起こっている所では、対立点を中心に対象性が形成されています。

9/07/2012

誕生

サラ:

☆十字架にかかったのは、あなた ジーザスですか?
あなたは人間でしたか?

あなたは 普通の人間と同じように、あのとき血を流したようですが(なにしろ わたしサラはそれを実際に目撃していないので)あなたはあのとき“痛み、苦しみましたか?
それとも痛みを苦しみを“実際には!”感じなかったのでしょうか?

☆あなたはマリアの子宮に宿りましたか?
あなたはマリアという女性の身体から出てきたのですか?


「人間を創ったのは神だ」とアベイラブルノーツは書いています。
(ジーザス、わたしは端的に質問したいのです。)

人間は女性が出産しなければ少なくとも“この世に”出現できないのでしょうか?
これからの未来も?

 
“わたしを産まなかった子宮こそ祝福されるべき(聖書)”とあなたは本当に言いましたか?
そうなら、それはどういうことか、今、具体的に話してください。

 
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ヒロ:

ヒロからサラに質問させてください。

あなたがお子さんを身ごもった時、お子さんを出産された時、ご自分のお子さんが永遠に生き続ける(存在し続ける)と思っていましたか?

この質問をされてあなたは怒ってしまうかもしれないけれど、あなたは私の起爆剤で、私はあなたの起爆剤なので、赦してください。

++++
サラ:

全然怒る気になりません。
だって、あなたの質問がそこにあり―。

そして、わたしサラには何も この質問の場所に何も実感がないからです。

あなたの質問が無意味で無価値と言っているのではありません、断じて。

 
わたしサラの実感はただひとつ!
身籠り、出産し、さらに 乳を与え―。

これは苦痛の激痛の憂鬱の血生臭く―。
ええ、これは ことわたしサラにとっては、あってほしくはないことでした。

産みの苦しみのどこに尊さがあるかわかりません。

マタニティーブルーを真の意味で誰が(人間が)説明できるでしょうか?
産んだ子の生命に思いを馳せることなど(そんな優雅な意識など)わたしサラには全くもって 無縁な世界でした。
 

それに……。

第一、 産んだわたしサラが、自分がやがて死ぬなんて全然ワカラナイ話しで、わたしは死ぬとはハナッカラ思えません。

そんなわたしに産んだばかりの子の生命の永遠を思うことなどできるでしょうか?

出産した夜はどうしようもない孤独感で涙が出ました。
 

++++++
ヒロ:

サラ、あなたはとても正直な人で、私は常にあなたに助けられています。

 
「自分がやがて死ぬなんて全然ワカラナイ話しで、わたしは死ぬとはハナッカラ思えません。」
それで当然です。

「存在が無くなってしまう。 実在している私/意識/気持ちが失われてしまう。」 これ程酷い欺瞞は他にありません。 

「ええ、これは ことわたしサラにとってはあってほしくはないことでした。」
つまり受胎と出産はサラの意志とは関係なく起こっていたのですか? 少なくとも受胎はサラの願いに反することだったのでしょうか?
 

+++
サラ:

“あってほしくはない”とは、
女性が出産することの肉体的苦痛 激痛 憂鬱、特に つわり という避けがたい(つわりが全くない女性がいることも確かですよ、現にわたしはその女性が目の前にいました)まとわりつく、これらの重た過ぎる重荷のことです。
 

旧約聖書か何かに、
神が罰として女性に妊娠出産を与えた―たしか こんな言葉がなかったでしょうか?

確かめてないので間違っていたらごめんなさい。
 

あってほしくはない、これからの女性には経験してほしくない、

それは 「肉体的精神的苦痛」のことだけを言いました。

真新しい人間をこの地球にもたらす、このことは至上のよろこびです。

わたしサラは
これは ある意味 わたしのやりたかったこと

この真新しい存在をもたらすdoorに神が成して
神がわたしに命令したことはたいへんな祝福でした。

神の栄光のリアルな手段に わたしがなれたことは本当によろこびなのです。

+++++
ヒロ

つまり「出産に伴って耐え難いほどの痛み(困難)があった、これ(痛み/苦しみ)が祝福だとは思えない」ということですね?

私には自分が人を出産した記憶が全くありません。 

(多くの人達にはまだ理解して貰えていないようですが)私は今回生まれる前からの記憶をある程度有しています。様々な身分や職業や人種であった自分を思い出すことが出来ました。

しかし自分が誰かを出産したという記憶は今のところ全く思い出せ無いのです。私は子供を生んだことが無いのかもしれません。 

いずれにしろ私に聞こえたことを言いましょう。

痛みは死を思わせるもの(程度の差はあっても死の可能性を示唆するものです)そして、一般的に体は痛みを受け取るものとして想定されています。 (「ある程度強いストレスが掛けられたなら体は痛み始め崩壊し始める」という定義が体に与えられており、それを忠実に執行しようとしてしまいます) しかし痛みはあなたを殺しません。

何故なら体があなたを作っているのではないからです。
体が自分である(体が自分の源である)と信じたなら「自分はこれだけの痛みを感じている、従って自分の体はそれ相応の影響/破壊を受けたに違いない、その影響はリアルで取り消せないに違いない」という体験が起こり続けます。
 
何故あなたは{妊娠期間中に、そして出産時に}痛みや憂鬱を感じたのでしょう? 

それはあなたが引き裂かれたからです。

「これが自分だ!」とあなたが考えていたものが引き裂かれたのです。

あなたは生まれ変わったのです。再生したのです。

だからあなたは「自分」を保つことが出来なかった。 出産の前と後ではあなたは違ってしまったのです。 

しかし痛みが原因であなたが崩壊したわけでは在りません。

怒りが在ったのです、怒りが悲しみに変容され、意識の中に留め置かれたのです。

悲しみに転換された怒りは、「否応なく自分に襲い掛かってくるもの」として体験されます。

何故なら悲しみに転換されてしまったなら、怒りが何処から来ていたか解らなくなって(知覚認識不能になって)しまうからです。

そして「私の痛みに意味が無ければ私は報われない」怒りはそう言うのです。

しかし痛みは無意味なのです。
 

{ここまで書けました。 しかし未だ未完成です。 これを自分を、そして誰かを断罪するものとしては読まないでください。 そのように聞えてしまうかも知れませんが。}

 
+++

サラ:

「しかしあなたは自分を保つことができなかった」

この“保ってきた自分”とは、神から分離した自分のことを指していますか?
 
わたしが出産したあの日の夜、抱えきれないほどじわじわとやってきていた

あのどうしようもない孤独感とは。
 

つまり、エゴが危機にさらされている最中の鈍痛のようなものだったのかもしれません…。
これはまた、つわりの、心身ともに 萎えさせられる、あの苦痛や憂鬱…。

 
エゴの消滅の危機から

エゴが発する容赦ない
「神聖な真のわたしへの意地悪な攻撃。 神聖なわたしへの抵抗」(このふたつは同じでもあります)

つまり つわりの苦しみも 出産時の悲しみも、同じエゴから来ていたものに思えてきました。 

「新しい命」とはまた、愛で見るなら、神の目で見るなら―。
出産する者の中にこそ注がれた、その存在そのものの真新しい存在と捉えてもよいかと今 思いました。

++++
ヒロ:

二人のやり取りを一つに繋げて読み返して見たところ、食い違いも見られますが、心配していたよりは一貫性があるようです。 こうして見ると私の書くことはかなり抽象的で、サラの文章は(体感的な話や感想など)私にはない特徴を豊富に備えています。 

 
「あってほしくはない、これからの人には経験してほしくない、それは 肉体的精神的苦痛のことだけを言いました。」「自分が引き裂かれた。あなたは自分を保つことができなかった。」
これは私にとっては、子供の頃に死という概念を自覚した時が当て嵌まります。

「永遠の死、一旦死んだならもう二度と生きることはない、自分が生きている世界がこれを教えている」これを理解した時私は引き裂かれその精神的苦痛は癒やされず残り続けていました。


 
神が人を造り、人と神は一つでした。 神が源で、源である神の現われを体現しているのが人です。

人は神から離れる決意を行い、知恵の樹の果実を食べました(分離意識の思考を始めました)。

そして「分離した知覚認識の結果」を信じるようになったのです。

そして「分離している知覚認識の結果」を保とうと試みています。

 

「十字架の上でイエスは苦しんだのですか?」
例えそうであっても彼は世界を呪いませんでした。 十字架の上で彼は一言も呪いの言葉を吐きませんでした。

 

「人は女性が出産しなければ少なくとも“この世に”出現できないのでしょうか?
そうである必要はない。(そう聞えました。) あなたが認識している世界が「この世」なのだから。

9/05/2012

つるぎ

ルカ19:27   ミナ(金貨)のたとえ

「さて私が彼等の王に成ることを求めなかった私の敵に関しては、彼等を私の前に引き立て私の前で彼等を殺しなさい。」

人がこれを自分が他者に対してするべきこととして聞いたなら、次のようになってしまいます。

ルカ22:49
「何が起こっているか気付いた弟子達が『主よ、わたし達の剣を使いましょうか?』とイエスに訊ね、その中の一人が司祭の僕に切り付け、彼の右耳を切り落とした。」


しかし実際のイエスの行動は下記の通りです。

「しかしイエスは「もう止めよ!」と言い、その人の耳に触れて彼を癒やした。」
 

 
人が私を誤解した?私が人の言葉を上手く話せなかった? そうあなたは言うのですか?
それらは全く同じことを言い表しています。


ルカ 22:36
イエスは言った。「しかし今、財布や袋を持っている者はそれれらを持って行け。 そして剣を持っていない者は自分の上着を売ってそれを買え。 何故なら『彼は犯罪者の運命を分ち合った』と聖書に書かれていることが私の上に起こらなければならない、何故なら私に関して書かれていることが真実に成るのだから。」

弟子達は「主よ見てください、ここに二振りの剣があります。」と言い。
「それで十分だ。」と彼は答えて言った。

 
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剣(つるぎ)はあなただ。
剣は光り輝き、音を放ち、暗闇/無知を切り裂く

剣は他者に切り付けるためにあるのでは無い。

剣は、その光りによって無知を照らし出し、その音によって押し殺された沈黙を破り、その切っ先によって欺きを切り裂く。
 

人が神を否定し始めてから、人は自分の内側と外側を反転してしまった。

自分の外側に世界の原因が存在しており、自分の外側に見えていることが自分の内側に対して行われているように感じ始めてしまった。
故に人は世界のそして時間の被害者に成ってしまった。
 
 
「さて私が彼等の王に成ることを求めなかった私の敵に関しては、彼等を私の前に引き立て私の前で彼等を殺しなさい。」
神の意識が自分を司ることを求めなかった私の意識は(あなたの意識は)、全て捨ててしまいなさい。

葡萄園より2

(筆者に向かって)あなたは躊躇していますね。 この話に整合性があるか調べ疲れるまで立ち止まる積りですか?

昔の中に真実があるのではなく、今に真実があるのだから。
この話がどのように現在に当て嵌まるか考察しなさい。
この話が現在の何を言い当てようとしているか聞き取りなさい。

 
寺院は祭壇と同等で、祈りの家、人が神と繋がる場所、人と神が繋がっているべき意識の場所です。
イエスは寺院に入り、ビジネス/取引をやめさせ、教えを述べます。
するとイエスの教えに対する反発が起こります。
イエスの教えは、寺院/教会の権威を認めず、法律家の権威も認めず、社会の権威(村の掟)も認めなかったのです。

 
『あなたはどのような権威の下にこの教えを話しているのか?』そう問われたイエスは、
『その地で多くの人々の信心を集めていた洗礼のヨハネの権威が何処から来ていたと思うか?』と問い返します。

宗教家や法律家や族長達は、一人の野人であったヨハネの権威は自分達の権威とは別のものと考えていましたから、それが神から来ている(それが正当なものだ)とは言いたくありません。

しかし民衆を怖れている彼等は、ヨハネを否定したなら身の安全が確保出来ないと考えています。

だから彼等はイエスの問いに答えることが出来ません。

すると「では私もあなた達の問いには答えない。{正直でない問いに対する正直な答えは存在していない。 正直でない願いに対する、回答/解決は存在していない。}」とイエスが言います。


葡萄園の寓話は、『人は神の意志を退けようとしてしまう、しかし「神の権威(神の意志)から離れた人の意識」は時間の中で消滅してしまうこと』を言い表しています。
それを聞いた人々は「そんな事があってはならない!(そのようなことがありませんように。そのようなことは信じたくない)」と言いました。

するとイエスは、あなた達が信じている旧約聖書の中にもそのことは書いてあると言ったのです。

葡萄園より1


ルカの福音より
 

イエスはイスラエルにあるユダヤ教の寺院に入り、商人達をそこから追い払います。
イエスは彼等に言いました。『「私の寺院は祈りの家と呼ばれるだろう。」と神が言ったと聖書には書いてある。しかしあなた達はそれを盗人の巣窟にしてしまった。』

 
イエスはそこで毎日教えを述べ始めます。 司祭長と法律学者と長老達は彼を殺そうと思いましたが、全ての人達が彼に聞き入っていたので、手の出しようがありませんでした。

ある日イエスが寺院の中で良き知らせに関して人々に教えていた時、司祭長と法律学者と長老達がやって来て「これらのことをする権限をあなたはどこから得ているのですか? このようなことする権威を誰があなたに与えたのですか?それをわたし達に教えて下さい。」と言いました。

イエスは彼等に言われた。「まず私はあなた達に質問を訊ねよう。それに答えて欲しい。(バプティズマの)ヨハネの洗礼を与える権威は神から来ていたのか、それとも人から来ていたのか。」

彼等はお互いに話し始めた。「どう言ったら良いだろう?もし『神からだ』と言ったなら、『では何故あなた達はヨハネを信じなかったのか?』と彼は言うだろう。 しかし『人からだ』と言ったなら、この民衆がわたし達に石を投げ始めるだろう。何故なら、彼等はヨハネが預言者だと信じ切っているから。」{司祭達は「自分達が信じていることを今言ったなら殺されてしまうだろう」と考えた訳です。}

彼等は答えた。「それがどこから来ていたかわたし達は知りません。」

するとイエスは彼等に言った。「では、どのような権威によって私がこれらのことをするのか私もあなた達に言わない。」
 

ルカ(20:9)

そしてイエスは次の例え話を人々に語った。

むかし葡萄園を作った人が居た。その人は葡萄園を農夫達に貸し出して長い旅に出た。

葡萄を収穫する時期が来た時、彼は召使を農夫達の元に送って収穫の内の彼の分け前を受け取ろうとした。 しかし農夫達は召使を叩きのめし手ぶらで帰らせた。

だから彼(葡萄園の主)は別の召使を送り出した。 しかし農夫達は彼も袋叩きにし屈辱を与え空手で帰らせた。

彼(葡萄園の主)は三人目の召使を送った。農夫達は彼(召使)にも怪我をさせ外に叩き出した。

「私はどうしたらよいだろう?私の愛する息子を遣わそう。彼等(農夫達)も彼(私の息子)なら敬ってくれるだろう。」と葡萄園の主は言った。

しかし彼を見た農夫達は「これが主の子だ。彼を殺そう。そうすればこの土地は我々のものになる。」とお互いに言い交わし、彼を葡萄園から投げ出し、彼を殺しました。

「彼(葡萄園の主)は出て来て、これらの人達を滅し、葡萄園を他の農夫達に与えるであろう。」
 
{イエスの話を聞いていた}人々がこれを聞いた時、彼等は「そんな事があってはならない!(そのようなことがありませんように)」と言いました。

イエスは彼等を見て「それでは、次のScripture(旧約聖書の一部)は何を意味しているのか?」と訊ねました。

 『無価値なものとして家造り(大工)が打ち捨てた石こそが一番大切なものである。(一番大切なものになる。)』

その石の上に落ちた者は全員切り刻まれ、この石が誰かの上に落ちたなら彼は微塵に打ち砕かれるだろう。 

 
+++++++

 上記は「未来に起こること」を説明しているのではなく、「現在起こっていること」を言い表しています。

命の源である神の意識を無視し続けながら生き続けることは不可能です。

人が打ち捨てた石(人が無視している意識/気付き)こそが一番大切なものです。

葡萄園の主が神で、召使や息子は(神の意志を伝える)メッセージでありメッセンジャーです。

神のメッセージが無視されている状態が葡萄園の中(人の意識の中)で起こっていることです。

人の意識の中では神のメッセージが無視されている(殺されている)のです。

 
神は人を殺す意志は持っておらず、人が自分を殺害しているのです。

人が自分の中の神を全て否定し拒否してしまったなら、自分が打ち殺されてしまったように感じるでしょう。

 
聖書のこの部分に言い表されていることも権威問題(神の権威に関する誤解)です。

神の権威を法律に転換していた者達を私はいさめた。

神の権威を書物と取り違えた者達を私はいさめた。

神の権威を人の権威と取り違えていた者達を私はいさめた。

神の権威を自分達の権威への約束と取り違えた弟子達を私はいさめた。

 

だから私とひとつに成ったなら、あなたもいさめるでしょう。

もしかしたらあなたは嫌われるかもしれない。

それを厭うのは止めなさい。

言うべきことを言ってギフトを差し出したなら、あなたは自分の役目を果たしている。

「あなたのギフトは愛ではない。そんな事があってはならない!」とあなたに言う人が居たなら、もう一度私に訊ねなさい。

その人が説明を求めたなら、その時も私の言葉を手渡しなさい。

私は葡萄園の主に成る為に送られていたのではない。葡萄園の状況(人の意識の状態)を知らせる為に私は父から遣わされているのです。

 

 

サラ: 神の権威とは何ですか? 私はたった今、たまたまこれ(シナリオ)を読んでいました。
 

生きている神は、生きている人とひとつである神です。

神の権威が動かす。

神の権威があなたを動かした時、...

つまり神の意志と権威は同じものです。
 

サラ: ありがとう。神の威力とはたんに 『永遠』 “脅かされない” 神の意志、意識…神の全て全て。このことの力強さを言っているのだと思います。 「つくられし者が、なぜわたしを このようにつくったか、というだろうか。」(聖書)をつい 思い出しました。
 

リアリティは関係で繋がっている。リアルなものは、独立的に切り離されて存在してはいない。全ては全ての中に内包されているから。 

人は神との関係によって設立されている。

しかし人は自分を神から切り離して、自分と他者の関係を作り続けようとしてしまう。

神(意識)ではなく体(分離体)を自分の神(意識の源)として考えてしまう。